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「家族の思い出」

楽しい子育てや、楽しい家族の思い出作りのお手伝いをしたいという思いで始まった私たちの東京乳母車ですが、子育てが楽しいばかりのものでないことは明らかなことです。

 

「家族の思い出」というと楽しい思い出に違いない、楽しい思い出であるはずだ、楽しい思い出であるべきだ、と無意識のうちに思ってしまいます。

「楽しくない思い出」や「辛い思い出」はどこかに隠して、できれば無かったことにしておきたい。

たぶんそれは「理想の家族」、そこまでいかなくても「普通の家族」でありたいという気持ちの表れのような気がしてなりません。

優しい両親と可愛い子供たち。健康に恵まれ経済的にも不自由はしない明るい家庭。

 

子どもたちが生まれて、乳母車を押しながら私たち一家は幸せに暮らしていました。長女が7歳になるまでは。

 

その年のお正月、風邪をこじらせた長女を病院に連れて行くと、初めて耳にする難病を発症していることを告げられそのまま入院となりました。

娘はとても重症で、遺伝的なものも関係しており、1年以内に95%の確率で諦めてくださいとのことでした。

活発で良く笑う娘はとても可愛く楽しい子どもで、私たち、特に夫は娘を叱ったことがないほど。

その日から絶望と不安の日々が始まりました。

 

最重症だった長女の入院に付き合い、私はそれからずっと長女のベッドのそばの簡易ベッドで生活することになり、当時10歳だった長男とまだ3歳だった次男と離れ離れになってしまいました。

病院に行った長女と私が帰ってこないので、二人がどんなに不安だったか、その時の私は娘のことで頭がいっぱいで思いやることができませんでした。

 

小児病棟は特に感染を防ぐため、小学生以下の子供たちはお見舞いに立ち入ることができません。

夫に連れられて病院に来ても、小児病棟の入り口のソファーでお話するだけなのですが、小さい次男も事の重大さに気付いて泣かずにいたことがかえって辛かったことを覚えています。

 

最初の2週間ぐらい、娘は生きるか死ぬかの瀬戸際にいて、夜しいんとした病室の中で、私は確かに死神の気配を感じたように思い、角の暗がりに向かって「娘は絶対に渡さない!」とつぶやいていました。

 

結局入院生活は7ヶ月に及び、感染を恐れるため個室にいる娘のそばで私も一緒に簡易ベッドで暮らしました。

毎日病院で朝を迎える気持ちは何ともいえないものでした。

 

その後奇跡的に自宅療養の許可が下りるまでになりましたが、難病の完治が望めない不安な日々は変わらず、私たちの明るい生活はもう手の届かないところに去ってしまいました。

 

その年の夏休みが終わるころ、私と子供たちは知人を頼って海辺の町に転地して、夫は一人で東京に留まり、立ち上げたばかりの東京乳母車を運営することになりました。

 

この状態は1ヶ月で終わるのか、Ⅰ年で終わるのか、何年にも渡るのか、全く先が読めない状態でしたが、私たちは出発し新しい生活が始まりました。

病気に関しても仕事に関しても不安しかなかったのですが、私はあえて余計なことは考えませんでした。

こんなことで良かったのかどうかわかりません。

ただ、1番不安を感じていたはずの娘に心配をかけないこと、毎日を楽しくすること、それだけでした。

 

長男と次男はよく我慢してついてきてくれたと思います。いきなり転校したり、慣れ親しんだ友人たちや学校から引き離されてしまったのですから。

 

7年後、娘は闘病生活の末に亡くなりました。

 

この間楽しい思い出をたくさん残しましたが、辛いことの方も多かったのです。

どちらの思い出も私たちにとっての宝もの。

家族って楽しいことも辛いことも共有することなのかなと思います。

同じ釜の飯を食べる、同じことで笑う、同じことで悲しむ。

そこで連帯感もきずなも生まれる。

 

泣いたり笑ったり、怒ったり悔しがったり、相手を思いやったり、叱られたり、褒められたり、悲しんだり、様々な感情を経験するのが豊かな人生なのかなとも思います。

私たちは「普通の家族」の範疇から離れてしまいましたが、それ自体あやふやな定義なので、それぞれの家族のあり方を作っていけばいいと思います。

まだ悲しみを知らなかったころ。新宿御苑